延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、比叡山全域を境内とする寺院で、最澄により開かれた天台宗の本山寺院である。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、融通念仏の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。また、天台の思想に基づいた「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地として、世界遺産にも登録されている。

起源と歴史
起源〜大乗戒壇設立
比叡山は、『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われる。東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。延暦寺は、延暦7年(788年)、最澄が現在の根本中堂の地に営んだ小堂がその起源である。最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智??(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。

延暦7年(788年)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂、文殊堂、経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。

延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、唐に渡航することが認められ。翌々年、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山では天台大師智??(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学、戒律、密教、禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。このような菩薩僧を養成するための大乗戒壇の設立は、最澄の死後7日目にしてようやく許可となった。

名僧輩出〜宗派分裂〜武装化
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794−864)と円珍(智証大師、814−891)はどちらも入唐(唐に留学)して多くの仏典を将来し、比叡山の密教の発展に尽くした。また、「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師、912−985)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建、寺内の規律維持、学業の発展に尽くした。なお、比叡山の僧は、後に円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と「僧兵」が現われてきた。

比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。

源信(恵心僧都、942年−1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年−1132年)融通念仏の唱導者
法然(1133年−1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(1141年−1215年)日本の禅宗の開祖
道元(1200年−1253年)曹洞宗の開祖
親鸞(1173年−1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(1222年−1282年)日蓮宗の開祖
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をもって強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態であった。

3度の焼失〜現在
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、焼き討ちで知られる織田信長ではなく室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には 山門惣持院炎上(満済准后日記) などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼、あるいは半焼したと思われる。また、本尊薬師三体焼了(大乗院日記目録) の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、彼自身が殺されることによって延暦寺は再び武装し独立国状態に戻った。

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。

また戦国末期に織田信長が京周辺を制圧し、足利義昭との政治的対立を起こすと、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍をかくまうなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の武力が天下布武の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう通達し、これを拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたともいう)。

信長の死後豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、宗務の実権は江戸に移った。


比叡山1000年の道を歩く